まいこーmemog

生きづらいとき人の言葉で生き返るので,自分も言葉にしてみる.[memo+blog]

希望の国のエクソダスを50ページちょっと読んで

近頃少しTwitterで話題になっていた村上龍先生の『希望の国エクソダス』を読み始めた.村上龍先生の作品自体は初めて読むけど,非常に読みやすい.まだ50ページほどしか読んでいないなかで,

どういうわけか日本ではコミュニケーションが薄まってしまう。個人としての話を聞くことがほとんどない。

村上龍希望の国エクソダス』(2018 第10刷) 文春文庫 p52より

 この部分で過去に読んだ本や日常の経験とのつながりを非常に感じたので,同じ構造がある気がすることを簡単にまとめておこうと思う.

解釈

まず,この文章に関して具体例で解釈をする.本文中にある具体例は次の通り.

日本で、たとえば会社の傍の喫茶店で同じような話を聞いても、中村君という個人の話ではなく、中学生の談話として聞き流してしまったかも知れない。実際中村君の告白は、今の日本では掃いて捨てるほど語られていることだった。

ここでいう「同じような話」とは中学校でいじめがあって,いじめられた子が不登校になり,自殺未遂までしたという話である.そんな話はたくさんあるのでこの話をしてくれた中学生の「中村君」の話ではなく,中学生一般の集合の中の話として処理してしまう.そう言った内容が書かれている.実際に日常生活の中で僕自身もそのような思考を辿っている.

つまり,個人の話を,その個人の属する集合全体の中の1つの話として解釈し,擬似的に主語を拡大してしまう.そう言った現象をコミュニケーションの薄まりという.

学習における日本学生の特徴

これは数学者,広中平祐先生の著書『学問の発見』で言及されている.日本人学生は"Why?"や"How?"といったような真理(Truth)を問うような質問をするのに対し,米国の学生は"What?"という事実(Fact)を問うような質問をするということだ.これはつまり,日本人は大枠に適応できるルールのようなものを求め,それを個々に適応する思考をしているということ.アメリカ人*1は個々の事象を把握し,その集合として全体の性質を把握する思考をしているということだ.言い換えると,日本人思考は演繹的でアメリカ人思考は帰納的だということになる.これは先のコミュニケーションの薄まりにおける個人の話の主語を擬似的に集合に拡大することに似た構造があるように感じる.

名前の呼び方

以前,英語と日本語のスコープの違いという話を考えた.

maikocho.hatenablog.com

 この中でも触れたように,英語と日本語では姓名の順序が逆になっている.日本は姓でまず,所属集団を述べ,その後名前という個人を特定する情報を述べる.逆に英語はfirst name,last nameの名の通り,はじめに名前を述べて後から日本語での姓に当たるlast nameを述べる.この違いも先の学習に関する思考と同じように,集合→個か個→集合という構造がある.似たような構造は上の記事上にもメモしてある.

まとめ

僕自身がたしかに,人の話を個人の話ではなくもっと一般化した話のように捉えてしまう癖がある.具体的には「理系の人は〜」という捉え方や「大学生は〜」という捉え方だ.さらにこの聞き方は,会話の中でもよく聞く.女の子は恋愛に困ると他の男友達に「男の子ってさ〜」や「理系の男子ってさ」など一般化した集合の特徴を聞くことがあるし,僕自身も聞かれた.そのときは思いつく理系男子の特徴を述べたけど,実際効果があったかどうかは定かではない.

結論としては,日本人だからなのかどうかは知らないけど,確かにコミュニケーションの薄まりという現象は起こっているような実感があるので,目の前のその人の物語なんだということをもっと意識してもいいんじゃないかと思う.希望の国エクソダス,めっちゃ面白いのでおすすめです.

*1:厳密に何人とは言わないが傾向の代表としてアメリカ人と書く